宏道流の成り立ちと歩み
中国の文人・袁宏道の花論に傾倒して流派の基礎ができあがる
宏道流は、江戸時代中期に創流されたいけばなの流派です。当時の主な海外といえば中国(当時は明、1644年滅亡し清となる)で、文化や思想は日本より発達されているとされ、中国から輸入された様々なものが珍重されていました。
日本に輸入され元禄9年(1696年)に刊行された花書「瓶史」(へいし)は、瓶花の心得が多く記されており、早くから時の文化人達に親しまれていました。「瓶史」を記した明の時代の詩人、袁宏道(1568-1610)は兄・袁宗道、弟・袁中道と共に詩人として高名であり、世に「明の三袁」と称されていました。
江戸の住人、望月調兵衛(~文化元年・1804年)はひときわ熱心に瓶史を研究し、その花論に深く傾倒して当流の基礎を作りました。梨雲齋義想と号し、当流開元の祖とされています。
流名が「宏道流」と改まり、
初代家元が定まる
当時はまだ流名が定まってはおらず、袁宏道の字(あざな)、「中郎」を取って「袁中郎流」あるいは「袁中流」などと称されていましたが、次第次第にその門に入る人が増え、いつしか「宏道流」と称されるようになりました。梨雲齋義想の高弟であった原田三巴(本名長左衛門、~寛政9年・1797年)は、青雲齋溪崕と号し、瓶史を平易で解りやすく解説した「瓶史要述」(明和7年・1770年刊)を新甫山和井との共著にて刊行しました。溪崕は江戸湯島の商家の生まれで、人格、見識ともに高く、技量も並ぶ者がないほどに研鑽を積み、現代まで続く青雲齋の初世として宏道流の初代家元となりました。また「席上諸式・五巻」を制定し、門人への普及に努め、門下は3000人を数えるほどでした。
瓶史を平易な日本文に直し、
当流の普及を助ける
青雲齋溪崕の門に入った高弟雲齋鳥習(姓・桐谷)は、当時の花道を志す人々のために瓶史を解りやすい日本文に直し、詳細な注釈を加えた「瓶史国字解」(文化6年・1809年、全4巻)を編纂し当流の普及に努めました。同時に、他の門弟達と力を合わせ330点にも及ぶ作品が収録された「袁中郎流挿花図絵」(全13巻)も編纂・刊行し、当流の名声は世に刻まれることになりました。「袁中郎流挿花図絵」には作品の花材名や花器名だけではなく、花を生けた者の名前や住まいのある土地なども記載されており、他に例を見ない作例集でもあります。この功績によって、トウ(行人偏に東)雲齋鳥習は、梨雲齋義想、初世青雲齋溪崕と共に「宏道流三聖」と称されています。
初代以後、2世家元⻘雲齋溪(⾐偏+我)から現家元の12世溪壽までの系譜は以下の⼀覧に⽰した通り、宏道流の道統は連綿として受け継がれています。
宏道流 家元
12世 青雲齋 渡邊溪壽
- 東京都華道茶道連盟 代表
- 台東区華道茶道連盟 理事長
- 大日本華道国風会 理事長
- 明治神宮華道敬神会 会長
- (一社)帝国華道院 監事
- (公財)日本いけばな芸術協会 参与
- いけばな協会 理事
昭和52(1977)年9月、先代11世の逝去に伴い12世家元を継承。
現在に至るまでに華道会の様々な要職を歴任し、伝統文化を通じて地域社会に貢献している。
また、銀杏岡八幡神社(東京都台東区浅草橋に鎮座)の宮司を兼職している。